ベートーヴェンの『月光ソナタ(Sonata quasi una fantasia)』は、 単なるクラシックの名曲ではありません。 そこには、“感情を設計する音楽理論”が緻密に組み込まれています。
この記事では、第1楽章を中心に、哀しみと転調の構造を理論的に紐解いていきます。
1. コード進行に隠された“静かな叫び”
第1楽章の冒頭は、i → i7 → VI → iv → V(G#) → i
というクラシックな機能和声に基づく構成です。
トニック(C#m)を中心に据えながらも、属(G#)への緊張と解放を繰り返すことで、
“永遠に終わらない静かな揺らぎ”を描いています。
この進行は「アンダルシア風の下降感」を持ち、
聴き手に“哀しみの中の安定”というパラドックスを感じさせます。
▲ 冒頭のアルペジオは、i→VI→iv→V→i という陰影を繰り返す
2. マイナースケールが作る“沈黙の哀しみ”
C#マイナースケールの構成音は: C#, D#, E, F#, G#, A, B

特に6度(A)と7度(B)の関係が、哀しみの核心を作ります。 この2音が、常に“未解決の情動”を漂わせるのです。
A=希望の余韻、B=涙をこらえるような緊張。
そのわずかな距離こそが、ベートーヴェンの「沈黙の情熱」です。
3. Eメジャーへの転調が生む“救い”の瞬間
中間部では、C♯マイナー(主調)から Eメジャー(平行関係の長調/短3度上のキー) へ転調します。 暗闇の中に差し込む“光”のような構造です。
この転調は、単なる調性変化ではなく、 “内なる感情の転換”を象徴しています。
クラシックでは、このように心理的転調(Psychological Modulation)がしばしば使われます。
4. 和声リズムが描く“時間の止まった世界”
リズム的には、アルペジオが永遠に続くような構成。 コード変化の間隔が長く、“静止した時間”を表しています。

ここに「動かない時間」「永遠に終わらない夜」という詩的表現が宿ります。 ベートーヴェンはリズムすら感情の構造として使っていたのです。
5. 現代ポップスに通じる“感情設計”
この“Ⅵ始まり+平行関係(Relative key)転調”の構造は、実は現代音楽でもよく見られます。
たとえば日本のポップスでも、Am始まり→Cメジャー転調は“切なさ”の定番です。
ベートーヴェンの理論は、200年経った今も“感情の言語”として生き続けています。
6. まとめ:沈黙の中に感情を描く音楽理論
『月光ソナタ』は、言葉よりも雄弁な「感情の設計書」です。 理論的にはシンプルでも、その和声・転調・時間構成が聴く者の心を動かします。
音楽理論を学ぶということは、“感情の構築方法”を学ぶこと。 それこそが、ベートーヴェンから現代に続く音楽の本質です。